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下地島空港の歴史

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下地島空港は1979年(昭和54年)7月に開港。ちなみにこの年の出来事は 、アメリカスリーマイル原子力発電所の事故、、三菱銀行猟銃人質事件。歌謡曲では西城秀樹「ヤングマン(YMCA)」、サザンオールスターズ「いとしのエリー」、久保田早紀「異邦人」ジュディオング「魅せられて」などがヒット。プロ野球では巨人・江川投手と阪神・小林投手のトレード問題。そしてインベーダーゲームが大流行した年であった。




1959年(昭和34年)9月に撮影された貴重なカラー写真。
下地島空港が建設される前の下地島と伊良部島(手前)。



1966年(昭和41年)、ジェット旅客機による大量輸送時代を迎えるにあたり、日本国内でもパイロットを多く養成する必要から訓練飛行場の建設が検討された。1968年(昭和43年)、宮古島・伊良部島・下地島・多良間島・石垣島・西表島が候補地に。そして空港は下地島に決定された。同年に日本航空はアメリカモーゼスレイクに訓練所を開設している。超音速旅客機SSTの導入を想定した訓練も必要となることから高度な設備を備えた国内の訓練飛行場の早急な建設が求められた。日本政府はこれから発展していく民間航空事業への協力と沖縄振興のための平和政策であると説明。しかし宮古島、伊良部島、下地島の住民は飛行場建設に反対。1969年(昭和44年)4月の宮古郡民大会で誘致反対が決議された。これは将来、軍事基地に転用されることを懸念したからである。

沖縄の人々が基地を拒否する理由は沖縄の近代史を調べてみると容易に答えが出る。1609年の薩摩の侵略・統治に始まり、琉球処分、第二次大戦下での激しい地上戦、戦後の米軍統治、日本復帰後の基地問題・・・沖縄の近代史をひとことで表すとしたら「泣きっ面に蜂」「踏んだり蹴ったり」、まさに受難の歴史がある。琉球政府主席・屋良朝苗は沖縄振興のために飛行場誘致を推進していた。しかし反対運動が激しくなり、琉球政府は日本政府に飛行場建設の白紙撤回を要請、1969年(昭和44年)9月、国は下地島空港建設の中止を発表した。この間も沖縄本島の政治家などがあきらめず誘致運動を継続。一方伊良部島では、飛行場誘致に賛成する住民と反対派住民との間で暴力事件が度々発生。とうとう賛成派住民が反対派住民を殺害するという痛ましい事件まで発生してしまう。

1969年(昭和44年)11月、琉球政府は方針を転換し再び誘致を決定。住民との交渉が続けられた。けっきょく最後は下地島のすべてを買い上げ、住民への保障問題を解決していき、1971年(昭和46年)には「下地島飛行場は訓練と民間航空以外に使用する目的はなく、これ以外の目的に使用させることを琉球政府に命令する法令上の根拠を持たない」との確認書が日本政府と琉球政府主席・屋良朝苗のとの間に交わされた。軍事基地には転用しないというこの"屋良覚書"によって事態は急速に進展。1972年(昭和47年)4月、下地島飛行場着工。沖縄の本土復帰1か月前のことであった。






舗装工事中の滑走路。






建設中の下地島空港管理棟。左端には骨組みだけの管制塔が見える。下の写真は現在の下地島空港。




開港間もない頃の下地島空港。南西航空の下地島ー那覇線はYS11型機で1日1往復。
1994年(平成6年)7月まで飛んでいた。



(取材・イタリアファイブネットワーク 東京支局)