~ 紆余曲折の下地島空港 ~
1966年の計画から2019年の新ターミナル開業まで
下地島空港と下地島全景。
川のように見える水路の手前が伊良部島。
下地島と伊良部島は6つの短い橋で繋がっており、二つの島はほぼ一体になっている。宮古島、伊良部島は晴れているのに下地島だけ雨が降っているというケースはめずらしくない。下地島は雨が多く、農業に向いている場所だという。そんな下地島に訓練飛行場建設の話が持ちあがったのは1966年(昭和41年)のことだった。
大量輸送時代で不足するであろうパイロット養成のため、国内に訓練飛行場が必要となり、いくつかの候補地から下地島が選ばれる。当初の計画では空港内に複数の格納庫、島全体も開発し、ホテルやヨットハーバーなど観光施設も盛り込まれていた。下地島は伊良部町(当時)に属しており、民家は数件あったが、島のほとんどは農地。伊良部島の住民が下地島に出向き、農業を行なっていた。伊良部島の人口は約1万人(現在は約5000人)、島の中心は漁港のある佐良浜(さらはま)。南方漁業で栄え、そのピークは昭和40年頃。グァムやパラオ、遠く赤道を超え、ソロモン諸島などでカツオ漁を行っていた。伊良部島・佐良浜の繁栄ぶりは想像を超える。漁師は高給取りで、一度、漁に出ると家が建てられるほどだったと言う。空港建設計画に伴い、平穏だった離島の町が騒がしくなっていった。住民は島の経済的発展を願う空港誘致賛成派と騒音公害や軍事利用などを心配する反対派に二分されていく。
伊良部島・佐良浜はかつて南方漁業で栄えた。
1959年(昭和34年)撮影
~下地島空港誘致、賛成派と反対派が衝突、死者も ~
空港誘致賛成派と反対派の争いは激しさを増していった。当時の地元紙(宮古毎日新聞)の見出しからもその緊迫感が伺える。
『沖縄誘致を決定」「下地島が最有力」「軍との共同使用ありえぬ」「あくまで平和産業だ」
1969年(昭和44年)、宮古島、伊良部島の住民が参加した宮古郡民大会で誘致反対が決議された。同じ頃、日本本土では成田空港の闘争で左翼の活動家らが激しい反対運動を繰り広げていたが、遠い南の沖縄、さらに離島の宮古島、伊良部島には活動家の姿はなく、純粋に島の発展を願う賛成派と騒音や軍事利用を心配する反対派の住民同士が対立するという構図だった。
「下地島での建設正式決定ではない」「激しい対立感情」「一触即発の対立」
「宮古島警察署、不測事態を警戒」「ついに暴力事態へ」
伊良部島の人たちは気質が荒いと言われている。那覇から調査団が来ても、佐良浜港で上陸を阻止するという激しい反対運動が起こる。賛成派住民と反対派住民の対立は激しさを増す。殴り合いでケガ人、そして賛成派の住民が反対派住民を殺害するという事件まで発生する。住民同士が争い、死者が出るほどの過激さ、島全体が殺気立っていた。
「態度決定迫られる行政府」「政府もついに断念」「石垣島に変更決定」
「反対派 万才を叫ぶ」
白紙撤回、再び建設決定と二転三転し、最後は国が下地島の土地をすべて買い上げることとなり、日本政府と琉球政府主席・屋良朝苗のとの間で軍事基地には転用しないという"屋良覚書"が交された。1972年(昭和47年)4月、下地島訓練飛行場は着工に至る。
「空港建設が決定してからの行政のスピードは、とても早くて驚きました。あっという間に着工、完成しました」そう話すのは伊良部島商工会女性部部長を務める福島典子さん。
その後、南西航空の下地島-那覇線が就航、日本航空、全日空は連日のようにタッチアンドゴーを行い、訓練機も多かった。地元での人材雇用、一定の経済効果もあった。空港は順調に続くように思えたが、搭乗率の低迷から南西航空の定期便は運休となり、シミュレーターの普及で訓練機の数も減っていった。伊良部島の住民が最も心配していたのは島の過疎化。"経済的なメリット"を優先させ、屋良覚書を反故にして自衛隊を誘致しようとしたこともあった。基地は軍事施設の固定化につながるが、滑走路の使用だけなら、問題ないのではないかと当時の伊良部町長は考えたが、自衛隊の下地島空港誘致は二転三転したうえに住民の反対もあって中止となった。
下地島空港。1991年
2012年には日本航空、2014年には全日空が下地島空港での訓練から撤退すると発表。下地島空港は沖縄県が管理する地方空港である。当時、1年間にかかっていた維持費は約3億円。日本航空と全日空が年間1億円ずつを負担していたが、それらはすべて沖縄県の負担となった。廃港とする案、国に下地島空港を渡す案、宮古空港を廃止して下地島空港に統合する案、様々な案はあったが、下地島空港の再利用はまったく決まらないまま月日が流れる。
下地島空港は島の財産、と語るのは伊良部島商工会会長の大浦貞治さん。「使われてない下地島空港の再活用を進めるため、島民の決起集会を行った。宮古島市長とともに東京まで嘆願に行ったこともあった。しかし行政はまったく動いてくれなかった」
決起集会ではこう話す住民もいた。「島を二分して争った上にできた下地島空港。使わずに放置とはなにごとか、国も沖縄県も無責任すぎる」
下地島空港の再活用を求める伊良部島の住民集会。
2016年11月20日・伊良部中央公民館
宮古島と伊良部島を結ぶ伊良部大橋は2015年1月に開通した。その75年前、1940年(昭和15年)、宮古島の平良港と伊良部島の渡口の浜を結ぶ旅客船が、渡口の浜の手前でエンジン故障、強風と高波で転覆し、死者73名という惨事が起きた。この事故の記憶から伊良部架橋建設の運動が始まる。しかし、離島のそのまた離島である伊良部島、宮古島とはいちばん近い場所でも3キロの距離がある。橋など夢のまた夢であると伊良部島住民の誰もが感じていたという。1992年、宮古島と池間島を結ぶ池間大橋(1425m)が開通、続いて宮古島と来間島間の来間大橋(1690m)、離島振興は着々と進み、2006年、伊良部大橋(3540m)が着工された。橋がなかった頃、伊良部島を訪れる観光客は年間に約1万人。伊良部大橋の開通後は年間40万人、そして将来は100万人になるとも言われている。伊良部大橋は地域の起爆剤となり、下地島空港の再活用に三菱地所が名乗りをあげる。
伊良部大橋を伊良部島へ向かう。
~ 観光客の増加と島の開発 ~
2019年3月、下地島空港に新ターミナルがオープン、成田からの直行便も就航する。長年に渡ってここまで紆余曲折ある空港もめずらしいのではないだろうか。
新しい空港ターミナルは三菱地所が建設。総合商社の双日、沖縄の建設大手・国場組、三菱地所の三社が出資した下地島エアポートマネジメントが空港ターミナルを運営する。空港のハンドリング会社として大手物流・鈴与の子会社が、伊良部島にはアメリカのマリオット系列のホテルが2018年12月に開業。今後、様々な企業が、ホテルや店舗などを展開することだろう。
「空港建設の時は行政のスピードは早かったのに、ここまであまりにも時間がかかり過ぎた、なぜこんなにも遅いのか」行政の対応の遅さを指摘する声は多い。
「島のほとんどは零細企業です。今までは希望が持てませんでした。高齢化、過疎化の心配ばかり、今は不安よりも期待が大きい」(伊良部島商工会女性部部長・福島典子さん)
「空港を残してくれたおかげで島の活性化につながる。今まで子供たちは高校を出たら、就職先がないために島を出ていくしかなかった。今後、グローバルな会社、先進的な会社が入ってきたら、それが刺激になる。やる気も出る、子供たちは夢が持てる。期待は大きい」(伊良部島商工会会長・大浦貞治さん)
伊良部島商工会会長・大浦貞治さん
伊良部大橋から渡口の浜にかけての海岸線は建設中の建物が多い。
一藩右はマリオット系列「イラフ SUI ラグジュアリーコレクションホテル」
島が豊かになるいっぽうで、観光客の増加、それに伴うホテル建設などの開発によって自然が破壊され、島は変わってしまうのではないかという不安を誰もが感じている。宮古島選出の座喜味一幸・沖縄県議会議員に話を聞いた。
「伊良部大橋のインパクトが大きかった。宮古島の評価はあがっている。しかし、大手企業の閉鎖的な開発はいけない。開発する側と地元、双方にメリットがなければ意味がない。ゆったりと流れる時間、豊かな自然。それが宮古島の良さであり、美しい島を残すことが絶対条件だ」
座喜味一幸 沖縄県議会議員
「例えばビーチについて、ハワイのようにいつも清掃されていて、漂着ゴミがあっても翌日には処理され無くなっている。そんな徹底した管理が必要。補助金はある。しかし、行政の情報共有、問題意識などが鈍い」
ビーチに限らず、課題は山積している。ゴミや道路整備の問題、土地利用計画や都市計画の見直し、座喜味議員の言葉からは危機感が感じられた。「行政のスピードが遅い。早くやれと何度となく指示をしている」
急速に発展していく観光産業、そのスピードに追いつけず、行政が後手に回れば、美しい島が失われる可能性が高い。
宮古島・与那覇前浜
観光客であれ、島の住民であれ、思うことは同じ。美しい島を守りたい、美しい島に癒されたい。宮古島が50年後、100年後も、ゆったりと時が流れる自然が豊かで、美しい島であってほしい。すべてにおいて行政の的確な判断と迅速な対応が重要であり、沖縄県や宮古島市の行政に向けられた課題は多く、その責任は重い。
(取材・イタリアファイブネットワーク 東京支局 / 2018・12・23)
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