下地島空港 タッチアンドゴー 1990's
ANAトライスター コックピット
1990年7月24日、午後5時半。ANA下地島訓練所。二階に上がり、受付カウンターを通り中に入るとブリーフィングルームがある。この日の最後の訓練フライト、教官は紙田機長、訓練を受けるのは上遠野 副操縦士、すでにブリーフィングを終え、訓練機に向かおうかというところだった。離陸時に「一発動機不作動訓練」を行うことを紙田機長から説明を受ける。午後4時25分発の南西航空那覇行きYS11が飛んでいってしまうと、残されたのはANAトライスターの1機のみ。一般の空港のエプロンであればコンテナを搭載した車両やバスなど、交通量が多いため周囲に気を配らないと危険である。しかし下地島空港は車両も人もおらず、点検を終えたトライスターがスポットに入っているだけ。訓練所からエプロンをまっすぐ突っ切って機体へと向かう。訓練を終えた教官と訓練生が降りてきた。その後ろに航空機関士の岩崎氏。航空機関士はそのまま続けて乗務するらしい。タラップ下に到着した上遠野副操縦士とともに機体外の点検を始めた。
全日空下地島訓練所
この回のコックピットはジャンプシートに着席するのは訓練生ではなく撮影チームのみ。コーヒーなどの飲み物が入ったクーラーボックスが客席におかれているが、訓練中に飲む時間はあるのだろうか、などと思いつつ コックピットに入った。ANAロッキードトライターのジャンプシートは左操縦席の後ろと、フライトエンジニア席横のコックピット中央あたりに設置されている。訓練時は機長席に訓練を受ける者、右席に教官、ジャンプシートには他の訓練生が座る。一定のトレーニングが終わるとタクシーウエイ上、またはスポットに戻って席を交代する。
撮影機材は当時としては新しかったソニーのBVP3という放送用カメラ、今ではカメラとレコーダーが一体式なのが普通であるが、昔はカメラとレコーダーがそれぞれ分かれておりカメラマンがカメラを担ぎ、ビデオエンジニア・サウンドマンがレコーダーを持って二人一組で撮影するのが普通のTV局のスタイルだった。コックピットでこのスタイルでは動きがとれないだろうと予測し一体式のカメラを持ち込んだのだが、カメラが大きく、重く、バッテリーも大食いで撮影に苦労した。
地上から撮影中のカメラマン
今でこそワイドレンズは普及しているが普通のレンズでは引いた画面があまり撮れない。コックピット全体を見せるためには右へ左へとカメラをパンする必要があるのだがシートの背もたれにカメラ後部がかかってしまい、パンできない。しかも4点式シートベルトのために身動きがとれないという二重苦。カメラマンは中腰のまま着席し体勢を整えた。上遠野副操縦士と岩崎航空機関士が戻ると、エンジンが始動されタキシング。離陸滑走が始まりエンジンがカットされると一瞬ブレーキがかかったようになりカメラが前に傾いた。しかしその後は右にも左にも傾くことなく何事もなかったかのように離陸。乗客として客席に座っていたとしても誰も何も気づかないだろう。エンジンは一機停止したままである。パイロットは焦らず慌てず緊急時の対応を行うとは聞いてはいたがその風景を目の前にして、心の中で拍手した。
機体先端に乗っているためかどうかは不明であるが着地の瞬間の揺れは大きく、普段乗っている飛行機では経験できない揺れであった。接地の瞬間に画面が大きく揺れることでそれが見てとれる。そして旋回時は海面が真下に見えて90度に傾いているように思えるくらいの急バンクだった。地上のカメラは最後の旋回から機体を滑走路にまっすぐにもっていくトライスターの様子が捉えられている。高度は約900フィート(約300m)、ギアを出したままのミニマムサークルでの訓練。大型機を最小回転半径でピタリと滑走路に正対させる。
RWY17へファイナルレグ
深いバンク角。海が真下に迫る。
アメリカ911テロ以降はコックピットへの出入りは厳しく制限されてしまった。 それまではコックピットドアを解放したまま着陸するところが乗客に見えるようサービスしていたエアラインもあった。JALもANAもお願いをすればコックピットの見学は可能だった。かつて、1980年代の下地島空港での訓練フライトでは地元住民が希望すれば気軽に誰でも乗せてもらえたそうである。訓練生がいるためにコックピットには着席できないがキャビンの客席なら自由に乗れたそうだ。タッチアンドゴーというものがどういうことかわからず、ただ飛行機に乗れるとみんなで喜んで行ったはいいものの、急バンクの旋回に着陸、そしてまた離陸、急旋回、着陸・・・客席はジェットコースターのよう、歓喜の声をあげる人やキャーキャー言う女性、中には機内で嘔吐する人もいたらしい。地元の方々にとって、よほどの飛行機好きでない限り、タッチアンドゴーはー度乗ったらもう結構という状況だったらしい・・・