下地島空港 タッチアンドゴー 1990's

撮影経緯 / 下地島へ

1990年、イタリアTV-5NETWORKとイギリス-マッケンジーフィルムは第二次世界大戦終結50周年番組の取材と撮影を行っていた。太平洋戦争の激戦地である沖縄に取材に行くにあたって当該作品以外にも今後も使えるような映像素材や取材対象があれば日程の許す限り撮影を行う計画であった。


調査の結果、番組のオープニングシーン、また沖縄を紹介するシーンを撮るため、最も海が美しいと言われる宮古島へ足をのばすこととなった。当時としてはめずらしかった風力発電や東洋一美しいビーチと言われる与那覇前浜、そしてほかに何かないかと模索していると・・・ある飛行機の写真が目にとまった。JALのDC-8が着陸をするカットで機体の下部が海の色を反射してエメラルドグリーンに輝いている。当時はインターネットも無い時代、調べるにしても資料は少なく、「下地島空港」が訓練飛行場であること、3000mの滑走路や成田・羽田と同じ高度な着陸誘導設備を備えていることなど一般的な情報は入手できたが現地の写真は極端に少なく、どのような場所かは前述の写真でしかわからなかった。一枚の写真に期待を託し下地島空港の撮影を提案。各方面に取材申請を行い1990年7月下旬の撮影が決定する。


後日談であるが沖縄各所に美しい風景を求め、多くの海・ビーチを撮影したが第二次世界大戦終結50周年番組の沖縄編での番組オープニングは下地島空港沖の海のカットが使われた。


那覇発、南西航空561便下地島行き。機材はYS11。チェックインカウンターでは体重をはかるために台に乗せられ皆で苦笑いをしていたのは今でもよく覚えている。ターミナルからバスでスポットへ。タラップを上がり機内に入ると・・・・異常な暑さである。YS11にAPUは無く、エンジンをかけないとクーラーを作動できない。スポットに入っている時は送風機が全開になっているが、これがまったく効かない。座席ポケットの団扇をあおぎながら出発を待った。周りの乗客もみな思い思いに団扇をあおいでいる。乗客は少なく、ほとんどが地元の人々であろう。観光らしき客はまったくいない。手押しの小さなカウンターを片手に持ったスチュワーデスが前から後ろに向かって歩きながら乗客の頭数をカウントし始めた。




那覇空港にて。 カウンターの荷物台に乗り、体重計測中のチェックイン客

20人ほどの客をのせたYS11は14時50分に那覇空港を出発、約1時間で宮古島の上空にさしかかる。下地島に隣接する伊良部島北側から下地島空港RWY17へ、少しずつ高度を下げ旋回するYS11。眼下には写真で見たとおりのエメラルドグリーンに輝く美しい海が広がっていた。


午後4時頃、YS11はターミナル前のエプロンに停止。ドアから外へ出た瞬間、 真夏の太陽が突き刺さるように照りつける。夕方4時とはいえ感覚的には午後2時頃か。灼熱のエプロンの上を歩いてターミナルへと向かう。 空港消防署の隣、プレハブ小屋のような小さな建物が下地島空港ターミナルである。 (現在は取り壊され更地となっている) 広さは30畳程度。中には幅2メートルくらいのカウンター、荷物のX線検査台と荷物の受け取り台があるだけ、ターンテーブルなどはなく係員が直接に荷物を台に載せる。ターミナルを出るとタクシーが並んでいる。強烈な冷房と沖縄民謡のラジオがかかったタクシーに揺られながら宿泊先のホテルへと向かった。



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